マイケルジャクソンのスリラーってよく聞くけど、何が凄いの?
爆発的な売上だったことは知っているけど、なんでそんなに騒がれたの?
今回は、そんな疑問にお答えするべく解説していきます!
スリラーの概要【数的記録を並べてみた】
『スリラー』の凄さを解説する前に、少しだけ「スリラー」の概要についてご紹介します。
『スリラー』がどのような存在であったのかを理解するためには、『スリラー』の残した数的記録や莫大な売上の規模感を見てみるのが手っ取り早いからです。
『スリラー』は、1982年12月に発売された後、1984年までの2年間にわたって、アメリカで80週間連続トップテン入り(そのうち、37週はナンバーワン)という驚異的な記録を残します。
以下に、そのアルバムの残した数字的偉業を列挙して見たいと思います。
このように、スリラーはとにかく「バカ売れ」し、アメリカに限らず世界中で大ヒットを巻き起こしたアルバムだったのです。
でも、「スリラー」に歴史的価値があると言われるのは、その爆発的売上によるものではないよ
売上だけでも偉業だと思うけどなあ
スリラー40周年記念に4Kにリマスターされたミュージックビデオ
スリラーが発表された1982年から40周年の節目に、ミュージックビデオが4Kにリマスターされました。
まだ観たことのない人や昔観て以来見ていない人は、ぜひ見てみてください!
マイケルの肌の質感や現場の埃、照明の明かりまでありありと感じられるよ
2022年末、Thrillerの40周年記念の節目に、Thrillerのミュージックビデオが4Kにリマスターされた際の海外の反応はこちらの記事にまとめています↓
スリラーは単なる「ヒット音楽」ではなかった
『スリラー』は爆発的に人気を得て、かつてないほどの売上を記録した事実により「凄い」と言われているわけではありません。
もしくは、『スリラー』の質の高い音楽や、マイケルジャクソンのかっこいい見た目にみんなが魅了され、マイケルジャクソンをスーパースターに押し上げたアルバムであるということで、「凄い」と言われているわけではありません。
スリラーがすごかった点は、当時の様々な音楽の「常識」を覆し、今にもずっと続く音楽の「新しい常識」を作り出したことにあります。
音楽批評家のトム・ユーイングはこうたとえています。
「『Thriller』は巨大な頭で、われわれはその後ろに延びる長いしっぽの上で暮らしているようなものだ」
音楽業界にとってマイケルは、天動説が唱えられていた世界に、地動説をもたらしたコペルニクスのような存在だったと考えるとわかりやすいでしょう。
現在はマイケルの延長にある世界に生きているので、スリラーはもはや「新しい」と感じられることはありません。
しかし、当時は以前の常識を覆す、「革命的」な存在だったのです。
では、なぜスリラーは革命的と言われるのか?
スリラーのどんなところが革命的だったのか?
このことを理解するために、まず、『スリラー』が発表された当時の時代背景について解説をしていきます。
『スリラー』が覆した「当時の常識」を知らなければ、『スリラー』がどのような点で革命的であるのかが見えてこないからです。
スリラーが発売された1980年代の時代背景
スリラーが革命的だった理由を解説するためには、スリラーが発売された1980年代の時代背景について説明する必要があります。
なぜなら、YouTubeや音楽のサブスクリプションの登場によって、いつの時代の音楽でも、いつでも、どこからでも、自由にアクセスできる現在とは全く違う背景で生まれた作品であることを理解しなければ、『スリラー』を正しく捉えることができないからです。
順番に、『スリラー』が生まれた1980年代という時代と『スリラー』との関わりについて解説します。
大衆文化の中心的・象徴的存在としてのスリラー
『スリラー』がリリースされた1980年代は大衆文化が栄えた時代で、その中で、中心的・象徴的存在としてあったのが『スリラー』でした。
大衆文化とは、クラシック音楽などの一部の知識層の人にのみ享受される文化に対して、広く一般大衆に受け入れられる文化のことを指します。
広告やアニメ、映画(ET、バックトゥザフューチャーなど)、流行(ルービックキューブ、パックマン、MTV)、テクノロジー(ケーブルTV、コンピューター、ビデオゲーム)などは、全てこの時代に爆発的に広がった大衆文化の一部です。
現在では、スマートフォンやインターネットから情報収集ができるため、テレビやラジオ、新聞や雑誌のようなマスメディアの影響力が少なくなっていますが、当時は個人が独自に情報を収集する手段はほぼありませんでした。
YouTubeやテレビの録画機能などもありませんので、リアルタイムでみんなで集まって「経験」することでしか、情報を得られなかったのです。
その結果、その時代特有の「みんなが惹きつけられ、一緒に経験した文化」、つまりその時代の「共通の体験」が生まれます。
ちょうど、同じ文化祭を乗り切ったクラスメートたちが懐かしく思い出話を語るように、1980年代を経験した人は、『スリラー』の思い出を懐かしく語ることができるのです。
1980年代に大衆文化が広く浸透していく中で、『スリラー』は大きな台風のようにみんなを包み込んでいきます。
『スリラー』のミュージックビデオをテレビで見た記憶、マイケルジャクソンの「ヴィクトリー」ツアーに行った記憶、『モータウン25』のテレビ番組でムーンウォークのダンスに息を呑んだ記憶、街中に溢れるマイケル・ジャクソンのポスターやトレードマーク、雑誌、CM…
作家のマイク・セルツィックはこう書いています。
「当時の若い人たちには、『Thriller』のビデオとマイケル・ジャクソンはDNAの一部になっているはず。」
『スリラー』は単なるヒット音楽ではなく、1980年代という時代における人々の個人的な思い出や人生の一コマに刻まれているものとして存在しているのです。
不況を救った救世主としてのスリラー
『Thriller』が発売された当時、音楽業界もアメリカ合衆国も深刻な不景気に見舞われていました。
アルバムが発売された1982年11月、失業率は10.3%という過去40年間の最高記録を記録し、大手のレコード会社はどこも販売数が極端に落ち込み、リストラを進めていました。
アメリカ合衆国だけでなく、音楽業界も売上の不振に苦しんでいました。
レコーディングエンジニアのブルース・スウェディンは「70年代の終わり頃、若者がゲームセンターや市販のゲーム機にお金を使ってしまうのでレコードはもう駄目だという話をよく聞いたよ」と話しています。
また、ダビングしたり、ラジオから無料で音楽を録音できるからのカセットテープが、レコード販売の不振の原因だという意見や、変わり映えのしないつまらない音楽ばかりが蔓延している音楽活動自体の停滞にあるという意見もありました。
このような時代背景から、1982年12月時点で、『スリラー』の歴史的ヒットを予想できた人は誰もいませんでした。
しかし、マイケル・ジャクソンは楽観的でした。
「質の良い音楽を作れば、売れる」
この信念のもとに、仲間たちと最高の音楽を作り上げることに専念した結果、スリラーが発売された後の2年間で、音楽業界は不況から大盛況へと大きく転換します。
「4年間も販売の低迷と音楽の行き詰まりに苦しんでいたポピュラー音楽業界は、待望の商業的、音楽的復活を果たし、ロックンロールの黄金時代を作り出した」
と、作家のJDリードは語っています。
実際、1984年にゴールドディスクに認定されたアルバムは全体の25%に上り、エピック・レコードの利益は前年比500%も跳ね上がったといいます。
「いい音楽を作れば、レコードを買ってもらえる」
「いい音楽を作れば、みんなに聴いてもらえる」
「みんなは、いい音楽を聴きたがっていた」
『スリラー』がそれを証明した瞬間でした。
このように、『スリラー』は、行き詰まりを感じていた音楽業界に「啓示」を与え、再び活気と進むべき方向を与えた救世主的存在であったと言えます。
最新のメディア・技術を味方につけたスリラー
1980年代初頭はソニーのウォークマンやCDラジカセ、カーステレオといった、これまでになかった製品が登場し、急速に社会へと浸透していった時代でした。
こういった新しいメディアは、音楽の聴き方、体験の仕方を変化させます。
歩きながら、電車に乗りながら、車に乗りながら。
音楽がもっと身近で個人的体験になっていきました。
また、技術革新は音楽制作の現場にももたらされました。
スタジオではシンセサイザーが伝統的な楽器に大きく取って代わり、製作される楽曲の音に劇的な変化をもたらしました。
『スリラー』でもシンセサイザーが導入され、最高のサウンドエンジニアや技術者のチームと共に、新しいサウンドが模索されました。
さらに、1981年8月には、MTVという24時間ミュージックビデオを流し続けるテレビ局が開局し、若者の間で人気を博していました。
1982年は不況である一方で、ポピュラー音楽が広く享受され、経験されるための準備は整っていたと言えるでしょう。
マイケル・ジャクソンのような野望と才能に満ちたアーティストが、『スリラー』のようなアルバムで、燻っている起爆剤に火をつけるだけの状態が用意されていたのです。
スリラーが革命的だった理由5選
『スリラー』がリリースされた当時の時代背景はわかったかと思いますが、それだけでは肝心な「なぜみんなに受け入れられたのか」「何が革命的であったのか」ということの説明にはなっていません。
ここでは、『スリラー』がなぜ革命的で、歴史的価値があるといわれるのかということについて解説していきます。
ミュージックビデオの定義を作ったから
『スリラー』といえば、ミュージックビデオの存在と切り離して語ることはできません。
『スリラー』を語るとき、みんなマイケルが楽しそうにガールフレンドの周りを回りながら歩くシーンや、ゾンビとなって踊り狂う「映像」がまず浮かんでくるよね
マイケルは曲作りの段階から、曲に物語性を持たせることを意識していました。
マイケルはこう言っています。
「音楽は聴くだけでなくて、見るのが大事なんだ」
お兄さんのジャーメインはこのように語っています。
「Thriller」の始まりのコード進行と、それがもたらす緊張感の高まりや身に迫る恐怖を聴いてほしい。マイケルはいつだって曲を聴いた人に、目を閉じて場面が目に浮かぶことを望んでいた。
You Are Not Alone: Michael, Through a Brother’s Eyes (English Edition)より
曲に物語性を持たせるという発想は、マイケルが好み、作曲の参考にしていたというクラシック音楽から得たものだそうです。
物語性のあるマイケルの曲と、ミュージックビデオの存在はとても親和性のあるものでした。
『スリラー』でマイケル・ジャクソンは3つの革命的なミュージックビデオを生み出します。
マイケルのミュージックビデオの何が革命的だったかというと、それが始まり・中盤・終わりという「物語性」を持ち、ただの「宣伝ビデオ」ではなく一つの「映像作品」として昇華されていたからです。
マイケルは14分間の「スリラー」のミュージックビデオ制作に50万ドル(最終的には100万ドル近くになった)という史上最高の予算を使い、監督にはホラーコメディの映画監督、ジョン・ランディスに依頼するなど、相当気合が入っていたことが伺えます。
お兄さんのジャーメインはこう語っています。
「ビート・イット」や「ビリー・ジーン」「スリラー」のような曲について考えるとき、 音楽が聞こえてくる前に「映像」が浮かんでくるのは、マイケルのミュージック・ビデオのビジュアルが文化の記憶として焼きついているからだ。これこそが、マイケルが獲得しようとしていた力とインパクトだった。1981年8月1日にバグルスの「ラジオスターの悲劇」がMTVの初めてのビデオとして放映されてからというもの、マイケルはこの新しい媒体で突出したいと思っていた。彼は、ただの新たなの宣伝道具を適当に作っているだけで、音楽業界が真剣に取り組んでいないと感じていた。「ミュージックビデオはもっと面白いものじゃないと!」と彼は言った。「始まり、中盤、終わりが必要だ。そう、物語が必要なんだ!」
You Are Not Alone: Michael, Through a Brother’s Eyes (English Edition)より
例えば、マイケル・ジャクソンが「ビート・イット」でみせた群舞は、その後のミュージックビデオのひな型としてたくさんのビデオに受け継がれています。
プロデューサーのクインシー・ジョーンズはこう振り返ります。
「彼のビデオ作品は社会に衝撃を与え、それと同時に映像はアートとして認知されるようになった。彼はファッション、グループダンス、全体を貫くパフォーマンスでミュージックビデオの定義付けに大きな役割を果たした」
マイケル・ジャクソンは『スリラー』において、誰もが見過ごしていたミュージック・ビデオの重要性にいち早く気づき、作品を芸術に昇華させることで、その後のミュージックビデオを定義したのです。
『スリラー』は音楽史に残る最高傑作と言われ、2009年にはミュージックビデオとしては初めて、アメリカ議会図書館の国立フィルム登録簿に記録されました。
最新技術を集結させた新しいサウンドだったから
マイケル・ジャクソンの『スリラー』は、シンセサイザーといった当時最先端の技術を集結させて制作されました。
また、マイケル・ジャクソンやクインシー・ジョーンズが求める芸術的なイメージを体現するためのサウンドが追求されました。
実際、プロデューサーのクインシーは当時まだ発展途上だったシンセサイザーの音と他のホーンやストリングスの録音とを重ね合わせ、独特の音を作るという技術を用いたり、デジタル処理で失われる自然な音の温かさを保持するために、ハリソン社のミキシングコンソールを用いるなどの工夫がなされたと言います。
また、当時の録音機材としては最先端の24トラックのマルチ・アナログレコーダーを複数接続して使うという画期的な録音方法を編み出しました(アルバムのライナーノーツに記載されています)。
技術的な制約をワープして飛び越えた。それが何であれ、マイケルやクインシーの感性が要求するレベルに届くまで機材の性能を引き伸ばしたんだ。
レコーディングエンジニアのマット・フォージャーはこのように語っています。
「既存の技術の中で何ができるか」ではなくて、「自分の求める芸術に技術を追いつかせる」という風にして、技術の可能性を広げ、誰もが予想できないサウンドを作り上げるという役割も果たしていたのです。
「みんなで」体験した画期的ステージがあったから
マイケル・ジャクソンの『スリラー』の売上と知名度を押し上げたものとして、「モータウン25」の存在は無視できません。
「モータウン25」とは、マイケル・ジャクソンがジャクソン5の時代に所属していたレコード会社で、その25周年を記念したコンサート及びテレビ放送が、1983年5月に行われました。
発売から数ヶ月経っていたものの、「Thriller」はチャートの一位にとどまり、MTVでもビデオが絶え間なく流されているなど、勢いが止まらない中でのテレビ放送とあり、人々の期待は高まっていました。
さらに、ケーブルテレビに加入していなかったり、MTVを見ない人々にとって、この「モータウン25」は大人になったマイケルを観る初めての機会となりました。
『オールミュージック』誌編集者のスティーブン・トーマス・アールワインはこう語っています。
「これは、驚くべき速さで圧倒的な成長を見せ、スーパースターへと成長したマイケルのお披露目だった」
番組の視聴者は5000万人に上り、ここでマイケルが披露した「ビリージーン」は、1956年の『エド・サリバン・ショー』におけるエルヴィス・プレスリーと、1964年の同番組でのビートルズのパフォーマンスに並ぶ、歴史的に重要なパフォーマンスと言われています。
「モータウン25」は、ステージ上およびテレビ放送で、みんなが一斉に「体験した」イベントとして、またマイケルが初めてムーンウォークを披露した息を呑むようなクオリティの高いステージとして、多くの人に記憶されています。
映画監督のクリストファー・スミスはこう語っています。
「客の反応にはもう飽き飽きしていた。でもこのときはいつもと違った。歓声ではなく、もっと会場全体から湧き起こる悲鳴のような、皆が同時に恐ろしいものを見たような、そんな感じだった。私の数列前にいた2人組の女性は、2人とも目はステージにくぎ付けのまま、ぶつかり合うみたいにしてお互いの体にしっかり抱きついていた。まるで相手に抱きついているのではなく、無意識にこの瞬間を抱きとめようとしているように」
ジョセフ・ボーゲルはこのパフォーマンスをこのように表現しています。
パフォーマンスのあいだ、マイケルには観客など見えていないようだった。彼は完全に曲のリズムとストーリーに没頭し、その辛さ、感情、緊張、痛みをダンスに変換していた。プレスリーの「Hound Dog」やビートルズの「She Loves You」など、かつての記念すべきパフォーマンスが喜びに満ちた若さの表現だったのに対し、「Billie Jean」は一転して暗い。罠、策略、不信、恐れといった内容を歌っている。25歳のマイケルの精神年齢は明らかに実年齢を超えており、普通のポップス歌手の作品とははっきりと違っていた。しかしマイケルが自分のパフォーマンスに複雑な感情を持ち込む一方で、彼のダンスからは未知のものへの期待感と解放感が窺えた。「物理の法則を否定する」ことがテーマと思われているムーンウォークもまた、彼を縛るものを表現した動きである。
マイケルはダンスによって、観るものに曲の感情を伝え、ムーンウォークによって縛るものを解放することを比喩的に表現したのです。
この歴史的パフォーマンスの後、『スリラー』の売り上げは伸びて、また週に100万枚のペースで売れ始めます。
この一夜のパフォーマンスをみんなで共有したことで、また新たな原体験を提供し、ポップカルチャーの金字塔として人々の記憶に記録されることとなりました。
ジャンルや枠組みを粉砕したから
マイケル・ジャクソンの『スリラー』は、音楽に存在しているジャンルや枠組みを粉砕しました。
ロックやR&Bといった音楽の枠組みは、人種とも深く関わっており、恣意的に決められるものでした。
しかし、マイケルは歌手として分類されるのを嫌がりました。
マイケルは、
「僕は音楽をジャンルで分けたりしない。音楽は音楽。誰かがロックンロールをR&Bという言葉に変えたんだ。ふたつはいつも同じものだった」
と『ヴァイブ』誌で語っています。
また、マイケル・ジャクソンが登場する以前は、黒人のアイディアや曲を、白人アーティストが勝手に使い、白人の「盗作」の方が大衆の人気をさらっていくという現象がよく起こっていました。
しかし、マイケルの音楽とスタイルはあまりにも独特で、本人と一体化しているので、他のアーティストが真似をすることは不可能でした。
マイケルのシャウトや変幻自在のボーカル、漏れる息遣いなどは、「マイケル・ジャクソン」のトレードマークとも言え、今までにもこれからもどんなカテゴリーにも入れられなかったのです。
マイケルがあまりにも独特だったので、世界は黒人アーティストであるマイケルを、ありのまま受け入れざるを得なくなったのです。
また、マイケルは音楽だけでなく、『スリラー』のアルバムジャケットでもジャンルや枠組みの逸脱を試みました。
ジョセフ・ボーゲルはこのように語っています。
『Thriller』はその楽曲で音楽に新しい基準を設けたが、ジャケット・カバーでもまた、人種、性別を超えた新しい理想美を象徴的に表現していた。マイケルの顔は優しく女性的で、コーカサス系あとアフリカ系のどちらのステレオタイプとも違っていた。彼はそれまでなかった両性具有的な存在を体現し、白人と黒人だけでなく、アジア人、ラテン人、アラブ人、インド人にも魅力的に映った。『Thriller』のジャケット写真hアメリカだけでなく世界中のロッカーや寝室の壁を飾った。この新しいイメージはアルバムそのものと完全に一致し、伝統的なジャンルや枠組みというものを粉々に壊してしまった。
マイケルは『スリラー』で、音楽とアルバムイメージの両方でジャンルに閉じ込められることを拒み、既存の枠組みを形骸化させたと言えます。
音楽における人種差別を撤廃したから
マイケル・ジャクソンの『スリラー』が社会に及ぼした影響として、音楽における人種差別の撤廃ということがあります。
『Thriller』が発売された当時、社会にはまだ多くの人種差別的障壁が残っていました。
黒人アーティストは偏見を持ってみられたり、同時代の白人から認知や試聴を拒否されていたのです。
例えば、グラミー賞は黒人アーティストを「R&B」の部門のみに閉じ込めたり、雑誌は黒人アーティストを表紙にすることを拒んでいましたが、それはただの「偶然」だと片付けられていました。
MTVも、黒人の音楽は「ロック」ではないからという理由で、黒人のビデオを流すことを拒否していました。
文化評論家のマーク・アンソニー・ニールは次のように語っています。
「異論はあるかもしれないが、(1982年の)MTVは、アメリカでの文化的人種差別の最も良い例だ。社会は肌の色での差別を公式には認めていないが、『ロック』しか放送しないということは、要するに白人アーティストしか放送しないという意味(『ワシントンポスト』紙はこれをポップ界の『隠れた人種差別政策』と呼んだ)だと理解されていた」
このような人種差別を、『Thriller』の前作の『Off The Wall』の頃から感じていたマイケルは、「誰もが無視できない傑作を作る」ということで、この壁を乗り越えようと決意します。
誰もが黙るようなヒット作品を作れば、さすがのグラミー賞、MTV、雑誌も「黒人だから」という理由で無視し続けることは難しくなるだろう、ということです。
実際、1980年にローリングストーン誌に表紙を断られたマイケル・ジャクソンはこのように語っています。
“I’ve been told over and over again that black people on the covers of magazines don’t sell copies. Just wait. Some day those magazines will come begging for an interview.”
黒人が表紙だと雑誌が売れないって何度も何度も言われ続けてきた。見てろよ。いつか、雑誌の方から僕に取材させてくれって頭を下げに来るだろう。
『Off The Wall』が、その年で最も人気のアルバムの1つであったにもかかわらず、グラミー賞では「ベストR&B男性ボーカル賞」のたった一部門にしかノミネートされなかったことは、マイケルの闘争心に火をつけました。
黒人であるから、年間最優秀アルバムにノミネートすらされない。
マイケルは不公平だと憤り、悔しさを感じます。
そのときの気持ちを自伝で、このように語っています。
僕はがっかりしたけれど、すぐに次のアルバムについて考えてワクワクしていた。自分自身に「次まで我慢だ」と言い聞かせた。彼らも次のアルバムこそは無視することはできないだろう。
マイケルの「誰も無視できないような良い作品を作る」という意気込みのもと作られたのが、『スリラー』であり、マイケルは有言実行を果たします。
アルバムの9曲中7曲がナンバーワンヒット、そのうち3曲では画期的なミュージックビデオが作られ、1曲では歴史的なパフォーマンスがなされました。
1982年に『ニューヨークタイムズ』紙はこのように書いています。
「最新のポップ・アルバム『Thriller』が素晴らしい。今日最高のポピュラー・ミュージックの歌い手による希望に満ちた社会への宣言といえる。この声明はまだわれわれが手にしていないあることを予感させる。つまり、われわれの社会にときとして立ち上がる白人音楽と黒人音楽、そして白人と黒人を分断する有害な壁が、今再び取り払われるかもしれないということを予感させるのだ。
この結果、「アパルトヘイト(人種隔離政策)」と呼ばれたMTVもついに、黒人のエンターテイナーを放送せざるを得なくなります。
MTVも最初は「ロック」しか放送しないといって、ビリージーンの放送を拒否しました。
しかし、CBS取締役のウォルター・イェトニコフにとって、当時の彼が抱える最高のアーティストの拒絶は受け入れられないものでした。
イェトニコフは当時についてこう語っています。
「MTVに言ってやったよ。『それなら今オンエアされている私のアーティストの全員引き揚げさせてもらう。全員私のものだ。今後はビデオの提供もしない。それからあんたたちが黒人音楽を嫌って放送もしない事実を世間に公表する』と」。
このようにして、『スリラー』はその特徴的な音楽からジャンルの枠組みを撤廃することに成功し、その影響力からMTVにおける人種差別的放送に終止符を打つことに成功したのです。
まとめ:スリラーは時代を象徴する「現象」だった
スリラーが歴史的、革命的と言われた理由について解説してきました。
今の時代とは異なる文化的背景や社会の中で、時代と共に生まれた『スリラー』は、音楽として存在していただけでなく、みんなを巻き込む「現象」のような力を持っていました。
さらに、『スリラー』は、その音楽で、映像で、イメージで、既存の枠組みや人種差別の壁をバラバラと解体することに成功しました。
子供の頃から「ナンバーワン」を目指すことを教え込まれた生い立ちや、黒人として経験してきた悔しさ、怒りなどから、「世界一売れるアルバムを作る」という野望を抱いたんだね。
それを実現する才能と技術とアイディアを持ち合わせていたんだね。
みんなで同時代的に経験するという、今では起こり得ない歴史的背景も、「スリラー現象」の一つの特徴でした。
時代や個人の思い出と共に結びついている『スリラー』は、今後も似たようなものが現れることはないでしょう。
時代とマイケルが生み出した名作を、これからも聴き継いでいきたいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ジョセフ・ボーゲル著
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